チームワーク

個人が完璧な仕事をこなし、他人にも共有可能な形で手段や情報を残しきめ細かに配慮をして、それを理解するための教育・共有も相手に対して行っても

受けた人がさぼったり過失があったりしてうまく引き継がれなかった場合、誰の責任になるんだろう?



チームワークということを考えてしまいます。


よく引用される言葉として

我々の間には「チームプレイ」などという都合のいい言い訳は存在せん。あるとすれば、スタンドプレーから生じる「チームワーク」だけだ。

という攻殻機動隊 中のセリフとされている文章がありますが、個人的にはこれだとまだ表現として浅い気がします。
(もちろん劇中のテンポを乱さないで、伝えたいことは伝えきる、という思慮の上で厳選された完成度の高いセリフです)



個人がベストパフォームした、全力を発揮して明らかに高いバリューを出したときに、周囲の人たちがそれを称賛したり価値を認めたり、そのバリューに対するポジティブなフィードバックをしない限り、その個人は今後その組織の中で全力を尽くそうというモチベーションは保てません。


ものすごく通俗的に略すと、頑張って成果を出した人を的確に評価しないとダメ、ということ。


組織の中で、個々が想像しうる最良の結果イメージがあって、最低限の部分で組織のメンバー全員にゴールが共有されている。

その中で、個人が個人の職能に応じてできる限りのベストの結果を求め、実際に結果を出し、それをほかのメンバーが素直に称賛し価値として認める、、、
そういうサイクルがない限り、チームワークは生まれないのだと思います。



この辺は、個人的にはすごい明確に明文化されている方がよいと思います。

たとえばストイックで仕事に対して真摯な人が他者についても自分と同水準のものを(おのずから、何も言わずともプロだから云々という理由で)相手に求めたりすると、たいてい裏切られてしまい、結果そのチーム内で全力を発揮する事に心理的抵抗が築かれてしまいます。

だから空気を読んで、性善説的に相手を信用するのでなく、もっと明文化した方がよい気がします。



また、「頑張って」「結果を出す」ことが大事で、どちらかが欠けてもダメなのかなと思います。

よくありがちなのは「頑張ったから」ほめる、というもの。これは「頑張りさえすればよい」「頑張っているように見えさえすればよい」というアリバイ的な言い訳を助長するだけで、たぶん一番イケない。

ゴールに対するイメージがぼやけますし、本当に「頑張って」「結果を出している」人がやる気を無くします。

まだ「結果だけ出す」人の方が有用で、そちらを評価する組織の方が健全です。ただ結果がある程度の水準に達したらそれ以上高みを追い求めない事も多くなるため、より高い水準に引き上げるために「頑張る」という評価ベクトルも大事なのかな、と思ってます。




冒頭の話に戻ると、職務をこなせなかった人も悪いですが、「頑張って」「結果を出す」というマインドや、ゴールイメージを組織内で共有できるようにチームビルドしなかった方にも責任がある、という事なのかなと思います。